2024年8月27日火曜日

小児はり


実践小児はり法 尾崎朋文・山口創・米山榮編集 2012年 医歯薬出版株式会社







頓医抄に塵気、肺の病と記載また腹取様(はらのとりよう)という按摩法、腹診の萌芽が現れる。


室町・安土桃山時代

実在の寄生虫と空想上の虫に対する鍼治療の登場。現在の小児鍼の代表的な適応症である疳の虫(小児のヒステリー諸症状)の淵源がこの室町時代に。

曲直瀬道三の全九集に小児の身柱穴へのお灸~ちりけ~が初出。ちりけ(塵気・散気)が丹毒の和俗名から身柱穴の別名に転化。

宣教師の文献に日本では大人の疾患と小児の健康、予防法にお灸が使われていたと記載(白人は瀉血)。

五輪砕(1450頃) 五疳虫…小児の病なり、疳蠍虫…小児の病なりなど。
針聞書(1568)小児の虫、おこるときは腹の張り、下し、夜泣き、瘡…いろいろ煩いありとも、針立て様、口伝…。

全九集(1544)「身柱の穴は第二椎の下の窪み… 小児の癲癇にも良し 三壮灸せよ 世にに ちりけと云いて下ろすはこの穴なり」

日欧文化比較(1585)

江戸時代 前期

丹毒の刺絡の批判と刺絡鍼法の再活性化。小児への従来より弱刺激で予防的な鍼の出現。

明国の医書十六種(1556以降 和刻は1654年)磁砭法 丹毒の患部を 片方の箸で磁片を叩打 

外科細漸(1606~10)鷹取秀次 丹毒の刺絡、悪しきと敬遠する動き

ただ明国の医書、古今医鑑(1577)万病回春(1588)の流入(和刻1600前後)再び活性化 

雲海士流、妙鍼流は三陵鍼(和名・刃鍼)と独自の配穴で大人の刺絡鍼法を本格的に導入

明国の鍼灸聚英(1573)小児鍼という熟語が現れ、岡本一抱の鍼灸抜粋(1676)が広めたが両書の意味するところは「細くて短い豪鍼」のこと。

広狭神俱集(1612)雲海士流 癖、積あらば病なくても細鍼で早鍼…発病前の予防的な現在の小児鍼に近くなる。

江戸時代 中期・後期

新生児への予防鍼灸の記載。小児の養生按摩が盛んに。蘭方を受容する前の刺絡流行。一般家庭での小児ちりけのお灸の広まり。大阪方面での小児鍼(中野針、うさぎ・うさぎ針)が盛況。小児鍼・藤井流鍼術の記載。


鍼灸秘粋(1692)匹地流 新生児の予防処置法の記載

「生まれてそのまま 廉泉 1から2分 大椎 飲乳を助ける 3分 脾兪 消化をほどこす 無病 麻疹を早くし 疳の心を去る…」

打鍼当流別伝(1772) 小児の針 金針 寫 浅く 錬りなく 跡も少し 浅く弱くが浸透していた。

明代末期の小児推拿の伝来「幼科急救推拿奇法」襲居中(1607)和刻(1696 1704)され 明 『小児推拿秘旨』巽廷賢(1604)『小児推拿法和解』(1700)という書名で和訳刊行。

小児推拿の和刻本 和訳本力が契機となつて 日本では小児按摩が盛に。

導引口訣抄(1713) 宮脇仲策 小児養生按摩ノ法は、食滞を除くための予防的な小児按摩  小児の皮膚への訓圧は 碁石13 (4~12g)を目安とする弱刺激。

宮脇仲策の小児按摩は 1世紀ほど後に「小児養性導引小鏡」という施本となって民衆の間に知れ渡る。

京都の医師名簿「良医名鑑」(1713)には4人の按摩家を掲載するが稲田真柳と御縁見(女性)の2人は小児按摩を専門とする通常の小児科・按摩科とは別に小児按摩が独立した分科として認知される小児鍼師の登場より50年も前のこと。

「万病回春」の青筋(のちに抄病と 重症化しやすい急性・伝染性・流行性疾患などの総称)説と砭鍼法を敷衍した清国・郭志隧の「抄脹玉衝」(1675)は、小島元撲が半世紀後に和刻(1723)  蘭方を受容する前の刺絡流行の起爆剤となる。

「退齢小児方」小児の二大病因「大半は胎毒、小半は傷食」はこのころに一体化した模様。

「摂州平野人絵図」(1763) 中野村・小児鍼師  記載。大阪方面からも堺方面からも多数の病児が訪れたので名物の一つに数えあげられたのであろう。

大阪の菅沼周桂「鍼灸則」(1767) 舟疾、癖疾の二症、肝兪・隔兪・牌兪・胃兪および身柱・腰眼に至るまで血を出しこれを治せば効あらざるは無し摂州中野村の―医、この法を行いて最も経験あり、俗に中野の一本鍼と称す…と書き残している。荻野元凱が蘭方式の「刺絡編」(1771)を刊行する以前の記録であり、明代の医書の延長線上に発達した刺絡鍼法とみられる。

「やしなひ卓」(1784) 「やいとをすれ 孝行者じゃ 親もよろこぶ 身も無事な」
挿絵 父親に抱擁される男児のちりけに母親が灸据える理想的な的な風景を描き出した。

「養生一言草」(1825) 「小児には ちりけ 天枢 筋かへを毎月すへて無病とぞ聞く」と「虫気ある 小児に灸を たへずせよ 試して見るに薬よりきく」の2首を掲載。

一方、小児灸に難色を示す小川顕道は「養生嚢」(1775)  世俗の小児を養うに、病も見えぬ前に、ひたすら灸治をする人あり。甚だ僻事なり。小児無病なる者に灸治を行う時は却って病を迎えると云えり…と忠告。

小児鍼の中野家が大坂民師番付に、中野村松栄の屋号で掲載されるのは江戸後期(1820)からで江戸末期には小児鍼としての中野針(1855~68)はブランド名となつていた模様。別のプランド名に、うさぎ・うさぎ針がある。
 
「近世浪華医家名鑑」(1845) 小児鍼 2家4名掲載 小児鍼 藤井文吾 藤井流鍼術祖

明治・大正時代

大阪での小児鍼の盛況。

明治期に台頭した大須賀流「鍼術治療大意」(1894) 大坂地方の疾病は必ず鍼するの良習あり。同門子、武田氏、彼地にあり。日々療する者二百人を下らず…と東京では考えられない大阪での小児鍼の盛況ぶり。

大須賀流「小児治例分」(1877) 夜泣き 百日咳嗽 吐乳など諸相 病因は項背の滞結なり 空法を施す  大須賀流は極細の豪鍼を用いるので「空法」は項背部の寫法か?
 
昭和時代

さらに弱刺激、刺さない小児鍼が主流に。逆に小児鍼の経絡治療(大人の治療)への影響。

「鍼灸医家評伝」(1925) 11名 「全国鍼灸医家名鑑」(1939) 12名の小児鍼の専門家 

藤井秀二は家伝の術式について柳谷素霊「鍼灸医学全書」(1940)に宛てたた手紙で、普通の鍼治家から見れば無刺激と考へられる如き1刺激が却って効果がある。多くの鍼治家が小児鍼なりと銘うってやつている実際を見ると皆強刺戦で、我々のやっている刺激とは格別の相違があると述べている 。

当時、接触・摩擦の小児鍼は非主流であるが、藤井のこの発言が主流派へと押しあげる契機となったようである。
 
関西鍼灸学院長の山本新梧は在学生だけに小児鍼の使用及応用点(1926)とい一枚刷を授与したが これが最古の小児鍼専門の印刷物のようである。 医道の日本1984.12 全文公開 

山本伝の鍼の持ち方、井上恵理が藤井秀二の継母である藤井ヨネから習ったものと瓜二つ。 

井上は藤井家を見学した折、ヨネの押手(左手)の動きとその役割の重要性に気づき、鍼をすると撫で又鍼をすると撫でる …あの左の手があやしいなと岡部さんと二人で良く見ていた「鍼灸臨床講義」(1970)と回想 。

そして同行していた岡部素道は切経を強調するようになり、経穴の取り方が不十分であると治療効果が少ない。経穴の硬結が消失すると身体違和および疾病の症候が消失し健康状態になると主張。「臨床鍼灸治療学」(1949)

東京で興った経絡治療の両雄が揃って左手(押手 切経)の重要性を再確認したとが今日の伝続鍼灸の概念の1つ、触覚を重視した診断治療技術を重視する(日本伝統鍼灸学会ホームページ)にまで昇華していく。

経絡治療家の小野文恵と山下詢は、非刺入鍼の体系化に貢献。

小野・山下が経絡治療における虚実の補潟に本格的に導入して以来 、気を調整する鍼法として、古典鍼灸研究会・東洋はり医学会および両会の分派が深化させ続けている。

要点だけを短く纏めたかったのですが、貴重な内容が多くかなり長くなってしまいました(・・;)